(写真は国立公文書館から引用)
大鏡には、下記の記述がある。
故女院宣子の御石山詣でに、この殿(道長)は御馬にて、帥殿(伊周)は車にて参られた。障はる事があって粟田口から帰るということになり、宣子の御車のもとに行き、その事情を伝えていた。入道殿(道長)は、御車も止め轅を押さえて立っている帥殿(伊周)の御うなじのとても近くの所まで、御馬を押し返し、打ち寄せてきた。
「早くいたせ、日の暮れる前に」
とても不届きなやり方だと思い睨み返したが、道長さまにはさして驚いた様子もなく、そこをどけようよもしない。
「日が暮れてしまう。早く、早く」
伊周さまは心が大きくざわついたがどうすることも出来ず、しぶしぶその場を立ち去った。
この事を、父の道隆さまにお話しなさった所、
「大臣を軽んじる者は、決して良くなるはずがない」と仰られたということです。
同じ話を、小右記では。
長徳元年(995年)二月二十八日
「女院は石山寺に参られた。中宮大夫道長、権大納言道頼、宰相中将道綱、左大弁惟仲が、御供に供奉した」と云うことだ。内大臣は車に乗って、御供に供奉した。粟田口に於いて車から下り、御車の轅に就いて、帰洛するということを申した。その際、中宮大夫が馬に騎って御牛の角の下に進み立った。人々は目を向けた。その理由が有るようなものである。頭弁が談説したところである。
さらに、小右記は続ける。
三月八日
頭弁(源俊賢)が伝え送って云ったことには、「今日、内大臣は雨を冒して、官奏に伺候した」ということだ。そして、頭中将(藤原斉信)が勅を承った。
「関白(藤原道隆)が病脳の時は、まず関白に覧せ、その後に内大臣に覧せて奏聞を経るように」
これを伝え聞いた内大臣伊周は、「もっぱら内大臣にゆだねるということは既に承っている、どういうことなのか? 」と奏聞を経た。
一条天皇は、「それではこの奏聞を関白に伝え、その申す趣旨に随って処置を命じよ」
実資はこう続ける。
「この事は大いに奇異の極まりである。必ずこの事は失敗するであろうか。往古から未だこのような事を聞いたことはない」
天皇の宣旨を翻させるなど、あってはならないと実資は嘆く。
三月十日
主上(一条天皇)の御意向は、「関白が病の間は、文書を覧るべき人がいない、これを如何すればいいであろうか」と仰せ下したものを、高階信順らが「伊周に関白詔を蒙るようにと奏上した。謀計の甚だしきは何人がこれに勝るであろうか。天皇の意向はこれを許さなかった。
四月四日
頭弁が云った。
「今朝、内大臣は内裏に伺候していた。随身を給わりたいということを奏上した。すぐに一条天皇は私を御前に召し、『関白の随身を、左右番長一人と近衛四人を給うよう、宣旨を下すように』仰った。御前から退出すると、内大臣から聞かれ、こう答えた。『汝の御随身についてはおっしゃられませんでした。』内府は顔色を変えて天皇の御前に参入し、これについて奏上した。天皇はすぐに私を御前に召し、おっしゃって云われたことには、『関白の随身について、すでに命じたのは間違いであった。もし先例が有るのならならば、内府に随身を給うよう、仰せ下すように』ということだ。関白殿に参って、このことを申した。関白がおっしゃったことには、『内府を関白とするよう、加えて奏上するように。もし、天皇の許容が有ったならば、一度に同じく仰せ下すように』ということだ。この事を、只今、思い煩っている」
またもや、天皇の宣旨を翻させる伊周。
四月五日
頭弁が云った。
「内大臣の随身を、昨日、関白が奏上された。今日、宣旨を下された。昨日、関白が奏上された趣旨は、今朝、奏聞を経た。内府の関白についてである。天皇の許容は無く、機嫌は不快であった。」
内大臣は女院に参って、随身の慶賀を啓上させたということだ。この事はきっと嘲弄されるであろう。漸く頤が外れるほどのことである。五箇日の假を申請した。
悉く、力で天皇にまで言うことを聞かせようとするその傲慢な態度が、一条天皇を固辞させ、後々にまで影を落とすことになっていく。
四月六日
中宮大夫(道長)が書状を送って来た。「寅剋の頃、出家入道した」ということだ。
四月十一日
「入道関白殿は、昨夜、亥剋の頃、入滅しました」
四月二十四日
「関白の葬送が行われた」と云うことだ。人々が云ったことには、「賀茂祭以前の吉田祭の日に、この事が行われるのは如何であろう」と。
五月十一日
「太政官中の雑事を、堀川大臣(藤原兼通)の例に准じて、行うようにとのことである」ということだ。
六月十九日
大納言道長を右大臣とし、中納言公季を権大納言とした。
七月四日
「165段 故殿の御服のころ」へと続く。