長徳元年正月二日、例年通り行幸が行われるが、関白道隆は病脳のため参入できない。これを許さない東三条院詮子は関白の元に返事を伝える、このやりとりが3時間程にも及んだという。
五日、叙位の儀が行われた。道隆は御簾の中に伺候していた。実資は小右記でこのように記している。
「病脳しているところが堪え難いからであろうか。時々、このような事があった。奇怪に思った。奇怪に思った」
九日、内大臣伊周の南家(関白家)と、鴨院(冷泉院の御在所)が、地を払って焼亡した。上皇(冷泉院)は、東三条第に遷御した。
十一日、除目始、関白は直衣を着し、御簾の内に伺候していた。
関白道隆の病が相当重いらしいことが窺い知れる。
十九日、御匣殿(原子)が東宮に参入した。
二月三日、夜通し雨。女院(藤原詮子)の宮人と、中宮定子宮人との間で闘乱があった。
道隆の病が重くなるにつれ、東三条院詮子と道長派閥が力を誇示してくる。道隆は伊周にその座を譲ろうとするが、一条天皇の許しがなかなか得られない。伊周の傍若無人な振る舞いが、他の政治の中枢にいる貴族たちの不満につながっていることもその原因のひとつであることは間違いない。道隆入滅まであと二か月。