(写真はWikipWikipediaより引用)
花山天皇は、安和元年10月26日(968年11月29日)、第63代冷泉天皇と摂政太政大臣藤原伊尹の娘・女御懐子との間の第一皇子として生を受けた。
太政大臣藤原頼忠を関白とするように。これは累葉の重心である。器用たるに足る」
永観二年(984年)八月二十七日、円融天皇は花山天皇に譲位した。
頼忠六十一歳。
枕草子でも重要な役割を担う花山天皇の即位から、弘徽殿女御である藤原忯子の卒去までを実資の小右記から引用する。
十月十日、花山天皇即位
辰の剋、左大臣源雅信が宣命を奏上した。
左大臣は座を起ち、位記の筥を内記3人に持たせ、月華の陰明門から出て八省院に向かった。
右大臣藤原兼家、大納言藤原為光、、左大弁藤原為輔、右近中将藤原道隆が列立している中、巳四剋、主上は紫宸殿に出御した。
御帳の中央に立たれ、内侍が神璽と宝釼を取り左右に立った。左近府は近衛を率いて左腋門を開き御輿を寄せた。主上はすぐに御輿に乗った。道隆が警蹕を称し、鳳輿は承明、建礼門を経て八省院に行幸した。先ず小安殿に入られ馬道の東方を御在所とした。南面に布障子を立てた。東、西、北に御屏風十比ほど立て渡した。その中央に大床子の御座を供し、そこには御匣殿の具があった。また、白木の小床子があり、その上に高麗縁の小畳を敷いた。馬道の西方は女房の候所とした。各々屏風で隔て、南の御壇の上を侍臣の座とした。内蔵寮が饗宴を準備した。御室礼が終わった。その時主上は大極殿の高御座に座された。内侍二人が礼服を着て神璽と宝釼に伺候した。高御座の後ろに織物の孔雀型の御屏風四帖を立てた。
「玉冠は甚だ重い。すでに気上しそうである。そこで御冠を脱ごうと思う」
翳 (さしは) をさしかざして天皇の顔を覆う役の執翳の女襦が座に着した。次いで高御座の御帳を褰げ開く役の褰帳二人、儀式の威容を整える 威儀の命婦四人が分かれて座に着した。次いで威儀侍従が参り進んだ。命婦は左右各二人、高御座の東西から出て、御前に当たって立った。鉦を撃った。女襦が鳥の羽や絹を張ったうちわ形のものに長い柄をつけた翳を執って左右に分かれ進んだ。褰帳二人が座を起って東西の階を登り帷を褰げた。女蔵人四人が御帳の内に入り、左右に分かれて御帳の帷を助け褰げた。針と糸で結び閉じた。褰帳は座に復した。執翳の女襦は本座に還った。しばらくして執仗の者が頗る遅引して警蹕を称した。これより先に行幸に扈従する中少将が仗下に控えた。右大臣、大納言為光、左大弁為輔、参議藤原公季は、御所の辺りに伺候して見物した。未だそのようなことを知らない。公卿は皆、礼服を着し、列に伺候した、宣命使は中納言藤原文範であった。左右大将は、列に伺候したので行幸に供奉しなかった。弾正尹親王は座を起ち、進んで御座に当たり、傍行すること数歩で、北に折れて進み、跪いて膝行し、儀礼が終わったことを称した。膝行し、退却した。すぐに立って傍行した。還りは、初めに進んだ儀と同じであった。本位に復した。殿下頼忠が鉦を撃った。女襦が翳を奉った。褰帳が御帳を垂れた。女蔵人が初めのように助けて下ろさせた。本座に復した。内弁の大臣が退鼓を打たせた。諸衛は皆応じた。主上は後殿に還御した。御衣を改めて、本宮に還御した。右近中将藤原義懐を三位に叙した。