/活動日誌/閑話/16Day's 2026-04-18 ( 初回配信 2026-04-18 ) facebook tweet LINE はてブ Pocket 4月12日。朝5時、鳥の声に起こされる。まだ空気は軽く、どこか張りつめている。今日は富士を撮る。そう決めたというより、そう決まってしまっている、という感じに近い。洗濯物を取り込み、6時開場の朝食会場へ向かう。5分前。すでに人が待っている。サラリーマン風の二人連れが、今日の行程を小声でなぞっている。登山帰りのような格好の客、年寄りを挟んだ家族。人はそれぞれ別の山を見に来ているのだろう。扉が開く。皿に色を集める。白、黄、茶、緑。品数は十分だが、意識は落ち着かない。ヨーグルトとコーヒーの置き場がない。どうでもいい。腹を満たす作業は、今日は前座にすぎない。連れ合いがチェックアウトをしているあいだに、車へ向かう。6:19 エンジンをかける。昨夜、半ば衝動的に探し当てた岩本山へ…富士を見るための場所だ。車を走らせ、岩本山へ向かうまでの時間は、すべて余白だった。腹を満たすのも、道を登るのも、富士に至るための助走にすぎない。太陽が正面から射し込み、視界を潰してくる。サンバイザーを下ろしても光は残る。それでも進む。撮りたいという意志は、だいたいいつも理屈より先に身体に現れる。駐車場に着き、少し歩く。風の匂いが変わる。そこで、富士が現れる。余計なものは何もない。電線も、標識も、都市の気配も削ぎ落とされ、山だけが残っている。巨大だが、押しつけがましさはない。ただ、在る。手前には茶畑が広がる。整えられた緑が、富士の無言の量感を受け止めている。派手さはなく、しかし心が疼く組み合わせだ。富士が見える。ああ、なるほど、と思う前に、まず黙る。富士山は、こちらに感想を許さない。感動する暇を与えない。そこに在るという事実だけで、思考を止めてくる。私はカメラを取り出す。「残したい」という衝動は単純だが、「写したい」という欲望は少し厄介だ。見ることと、撮ることは、似ているようでまったく違う。見るだけなら、富士は富士のままで終わる。しかし撮るとなると、こちらは必ず何かを切り取る。山を、時間を、自分の都合で分断する。構図を考える余裕はない。いや、正確には、考えることがもう間に合わないのだ。富士の量感が、こちらの判断力を押し潰してくる。とにかくシャッターを切る。切る。切る。不思議なものだ。写真を撮っているあいだ、私は富士を見ていない。レンズ越しの富士、ファインダーの中の富士、露出計が測る富士。それらを処理しているだけだ。本当の富士は、むしろシャッターを切る直前、あるいは切った直後の、一瞬の空白にある。茶畑の緑が前景で光り、富士は一歩も動かない。人間の都合など、最初から相手にしていない山だ。それでも、人は撮る。撮らずにはいられない。記憶は曖昧になるが、写真は嘘をつかない。そう信じたいのだろう。しかし、本当は逆だ。写真は雄弁だが、肝心な沈黙を写しきれない。写せないものがあるからこそ、人はまたシャッターを切る。この朝、私が撮ったのは富士山ではない。富士を前にして、言葉を失った自分自身の、その一瞬の姿だ。