西暦年 | 出来事 |
986/6/18 | 42 小白川といふ所は |
986/6/22 | 花山天皇出家 |
986/6/23 | 一条天皇即位 |
986/7/22 | 一条天皇即位の儀、血まみれの生首が高御座に(大鏡) |
988/12/5 | 摂政兼家、新中納言道長を勘当 |
989/2/23 | 権大納言道隆、内大臣に |
| 権中納言道兼、権大納言に |
| 参議右衛門督伊陟、権中納言に |
| 藤原実資、参議に |
989/3/22 | 一条天皇春日行幸、皇太后詮子と |
989/10/26 | 藤原定子着裳の儀 |
989/12/20 | 摂政兼家、太政大臣に |
990/5/5 | 兼家、関白辞任 |
990/5/8 | 道隆、関白に |
990/5/26 | 道隆、関白辞め、摂政に |
990/10/5 | 定子、立后 |
990/7/2 | 兼家入滅 |
990/8/25 | 女御藤原定子、職御曹司から里第に退出 |
990/9/1 | 右中将伊周、蔵人頭に |
990/9/30 | 右頭中将伊周、実資に立后の際の儀式の日記を借りる |
990/10/5 | 藤原定子、立后の儀 |
| 天皇は紫宸殿に出御 |
| 承明門、建礼門を開いた |
990/10/22 | 新后定子15歳、内裏参入 |
990/12/25 | 右衛門督藤原道長の女児藤原彰子、着袴 |
990/12/26 | 中宮定子の御仏名会 |
990/12/27 | 皇太后宮詮子の御仏名会 |
991/2/12 | 円融上皇崩御 |
991/9/16 | 皇太后宮詮子出家、東三条院と号す |
992/5/1 | 円融院の御果ての年 |
992/11/27 | 中宮定子、新宮二条第に還られた |
992/12/7 | 中宮定子、内裏に還られた |
993/1/7 | 白馬節会、拝舞か再拝かで実資指摘するも伊周失儀 |
993/1/22 | 内宴、大納言伊周、大臣の傍らに坐り、長押の下に退かせられた |
993/2/25 | 明日は(一条天皇さえ行幸される藤原氏の祭祀の)春日祭なのに祖父陀観の受戒により権大納言伊周延暦寺に登る |
993/4/23 | 道隆、摂政辞め、関白に |
993/11/1 | 宮にはじめてまゐりたるころ |
994/2/21 | 256 関白殿、二月十日のほどに、法興院の |
994/2/28 | 20 清涼殿の丑寅の隅の |
994/5/1 | 292 大納言殿まゐりて、文の事など奏したまふに |
995/2/1 | 86 頭の中将のそぞろなるそら言にて |
995/2/3 | 女院詮子宮人と皇后定子宮人との間で闘乱 |
995/2/18 | 108 淑景舎、春宮にまゐりたまふほどの事など |
995/2/28 | 女院詮子石山寺へ。道長、道頼、道綱、惟仲がお供に供奉。 |
| 内大臣伊周は車に乗ってお供に供奉。 |
| 粟田口で車から降り、御車の轅に就いて帰洛。 |
| 中宮大夫が馬に騎って御牛の角の下に進み立った。 |
995/3/8 | 関白が病を煩っている間、もっぱら内大臣に委ねるということは既に承っていた。 |
| 「関白が病を煩っている間、雑文書や宣旨は、 |
| 先ず関白に覧せて、奏聞を経るように」と。 |
| 何故? |
995/3/10 | 高階信順たちが伊周を関白にするように奏上 |
995/4/4 | 道隆、伊周を関白とするように奏上 |
995/4/5 | 天皇の許容は無く、機嫌は不快。 |
| 伊周、随身に。 |
| 関白に報告、女院詮子に啓上。 |
| 伊周は女院に参って、随身の慶賀を啓上、この事はきっと嘲弄されるであろう、 |
| 暫く頤が外れるほどのことである(五箇日の暇を申請した) |
995/4/6 | 道隆出家。道長も実資に道隆出家入道の書状を送ってくる。 |
| 中宮定子と東宮御息所原子が内裏退出 |
995/4/11 | 道隆入滅。 |
995/4/24 | 道隆葬送。 |
995/5/1 | 宰相中将斉信、宣方の中将と |
995/5/11 | 道長に内覧宣旨 |
995/6/19 | 道長に右大臣任命 |
995/6/29 | 165 故殿の御服のころ |
| 例のとは違う鐘の音を聞くために高屋に登る女房達 |
995/7/5 | 中宮定子女房、陰陽寮の楼に登った。また侍従所に向かって巡検した。 |
| 四位少将源明理が直衣と烏帽子を着して陪従した。 |
| 左衛門負の陣官はこれを見て怪しんだ。 |
995/7/24 | 右大臣道長と内大臣伊周が仗座に於いて口論を行った。 |
| あたかも闘乱のようであった。 |
995/7/27 | 七条大路で合戦が有った。これはつまり、中納言隆家の僕従が行ったものである。 |
| 道長従者との戦い。中納言従者玉手則武は右府道長の僕従2人を矢で射た。 |
995/8/3 | 隆家が下手人を奉らないのであれば、内裏に参ってはならないとの、 |
| 一条天皇の綸旨を給わったと、道長が言っていたと、平倫範が言っていた。 |
995/10/22 | 天皇は岩清水行幸から還御した。女院が見物にいらっしゃった。 |
996/1/16 | 右府の書状「花山法皇は、内大臣・中納言隆家と、 |
| 故一条太政大臣藤原為光の家で遭遇した。闘乱が行われた。 |
| 隆家の従者は御童子二人を殺害し、首を取って持ち去った」 |
996/1/25 | 除目に、内大臣の円座は取られていた。 |
996/2/1 | 僧都の君の御乳母、御匣殿とこそは |
996/2/5 | 平致光、及び兄弟の宅に、精兵を隠しているという風聞がある。 |
| 検非違使を遣わして捜検させるように。 |
| 五位以上の宅であるとはいっても、事情を奏上せず、直ちに捜検するように。 |
996/2/11 | 天皇の仰せにより中宮定子の行啓延引。 |
| 内大臣伊周と中納言隆家の罪名を勘申するよう頭中将藤原斉信が陣座に出て、 |
| 右大臣に命じた。満座は傾き嘆いた。 |
996/2/25 | 87 返る年の二月二十五日に |
996/4/24 | 除目。 |
| 太宰権帥正三位藤原伊周 |
| 出雲権守従三位藤原隆家 |
| 伊豆権守高階信順 |
| 淡路権守高階道順 |
996/4/25 | 伊周は、中宮の御所に籠っていた。すでに天皇の許容はなかった。 |
996/4/28 | 中宮は権帥伊周と手に手を取って離れられなかった。 |
996/5/1 | 出雲権守従三位藤原隆家を、今朝、中宮に於いて捕獲して、配所に遣わした。 |
| 夜大殿の戸を破り壊した。そこでその責に堪えず、隆家は出てきた。 |
| 網代車に乗せた。 |
996/5/2 | 権帥は去る晦日の夜に、中宮から道順朝臣と一緒に愛宕山に向かいました。 |
| 昨日、后宮定子は中宮権大夫源扶義の車に乗られ、 |
| その後、検非違使が夜大殿及び疑わしい所を捜検しました。 |
| 組入天井や板敷を外して、皆、実検しました。 |
| 后の御為に、限り無い大恥である。また、「后は昨日、出家された」ということです。 |
996/5/4 | 伊周は出家して、本家に帰った。 |
996/6/9 | 中宮御所が焼亡。 |
| 先ず、二位法師高階成忠の宅に移られ、 |
| それから車に乗って明順朝臣の宅に移られた。 |
996/7/13 | 88 里にまかでたるに |
996/8/1 | 146 故殿などおはしまさで、世の中に事出で来 |
996/10/8 | 伊周、ひそかに上京と中宮大進生昌が密告。 |
996/10/11 | 伊周を太宰府に下し送られる。 |
996/12/16 | 脩子内親王誕生 |
997/3 | 東三条院詮子の病気平癒で大赦 |
997/4/5 | 伊周。隆家召還の議、罪は恩赦を適用すべきで召還。 |
997/6/1 | 80 職の御曹司におはしますころ |
997/6/22 | 57 職の御曹司の立蔀のもとにて |
997/6/22 | 中宮定子、職御曹司に参入。はなはだ稀有の事である。 |
998/5/1 | 104 五月の御精進のほど、職に |
998/12/1 | 91 職の御曹司におはしますころ、西の廂に |
999/2/9 | 藤原彰子着裳。 |
999/2/11 | 藤原彰子叙位、従三位。 |
999/7/18 | 139 頭弁の、職にまゐりたまひて |
999/8/9 | 6大進生昌が家に |
999/8/9 | 中宮定子、前但馬守平生昌宅に御輿で御出。 |
| 一宮脩子内親王は糸毛車に乗った。 |
| この宅は板の門屋である。 |
| 「未だ御輿が板の門屋を出入りすることは聞いたことがない」 |
999/8/18 | 江学士大江匡衡、「白馬寺の尼(則天武后)が宮中に入って党が滅んだ。 |
| 皇后定子が内裏に入ったことを思うと、内裏の火事は旧例を引いたものでしょうか」 |
999/8/23 | 天皇は雑事を仰られた。 |
| 昔、孔光は宮廷の温室殿の前の樹について語らなかった。 |
| ましてや天皇の叡旨を記すわけにはいかないだけである(彰子入内)。 |
| また、中宮の御産の際の雑具を調達させるようにという事を承った |
999/9/19 | 内裏の御猫が子を産んだ。 |
| 女院、左大臣、右大臣が産養を行った。 |
| 「猫の乳母は馬命婦である。 |
| 時の人はこれを笑った」と云うことだ。聞かな事である。 |
| 天下は目を向けた。 |
| もしかしたらこれは咎徴が有るのではないか。 |
| 未だ禽獣に人の礼を用いるのを聞いたことがない。 |
999/10/19 | 道長と女御彰子の入内について問うた。葦毛の馬を一疋頂いた。 |
999/10/23 | 源相公が道長の使いで来て、彰子入内の屏風和歌を頼まれた。 |
999/10/25 | 今夜、左府の女子は、大蔵属連雅の宅に移った。入内の吉方であるからである。 |
999/10/25 | 姫君(彰子)が入内する為、今夜、方忌を西京の大蔵録太秦連理の宅に違えた。 |
| 左府(道長)も同じくいらっしゃった。私はお供に供奉した。 |
999/10/28 | 昨日、和歌を撰び定めた。 |
| 上達部が左府の命によって和歌を献上することは往古から聞いたことがない。 |
| ましてや法皇の御製についてはなおさらである。 |
| 今夕、和歌催促の書状があった。 |
| 堪えられないということを申させた。 |
| きっと不快の意向が有るであろうか。 |
| この事は感心しないことである。 |
999/10/30 | 右大弁藤原行成が、屏風の色紙形を書いた。 |
| 花山法皇、道長、右大将、右衛門督、宰相中将、源宰相の和歌を色紙形に書いた。 |
| 皆、名を書いた。 |
| 後代にすいでに面目を失している。 |
| 法皇の御製は「読み人知らず」とした。 |
| 左府は左大臣とした。 |
| このことは奇怪なことである。 |
| 主人は私に和歌を献上するように責めた。 |
| 献詞を述べたが、承引しなかった。 |
999/11/1 | 今日の夕方、姫君が入内した。亥剋、入内した。 |
999/11/7 | 中宮定子が男子敦康を産んだ。 |
| 彰子、女御の宣旨。 |
| 一条天皇、定子に御釼を奉献。 |
999/11/7 | 「中宮が男子(敦康親王)を産んだ。 |
| 私の気持ちは快然としている。 |
| 七夜の産養に物を遣わすことについては、通例によって奉仕させるように」 |
| 「従三位藤原彰子を女御とせよ」 |
999/11/13 | 七夜の産養、殿上人たちを産養に参らせるように命じられた |
999/11/23 | 新女御彰子が、初めて上の御座に上られた |
999/12/7 | 東三条院の御書状を賜って内裏に持参し、昼御座において天皇に奏覧した。 |
| 「この事は如何すべきであろうか」「理癒合は当然の事です。 |
| 丞相(道長)が参入した日に、直接その事をおっしゃるべきでしょう」「そのようにせよ」 |
1000/1/28 | 彰子、立后決定 |
1000/1/28 | 立后宣命の日を選び申させよとのことである。 |
1000/2/10 | 彰子、内裏退出 |
1000/2/11 | 定子、内裏参入 |
| 宮中から春日祭使が立つ日 |
| 御堂関白記で、「神事日如何」と難癖をつける |
1000/2/18 | 241 一条院をば今内裏とぞいふ |
| 敦康百日の儀 |
1000/2/25 | 彰子、立后の儀 |
1000/5/5 | 216 四条の宮におはしますころ |
1000/12/7 | 皇后定子、御産の際の調度を下賜。 |
1000/12/15 | 皇后定子、皇女媄子出産 |
1000/12/16 | 後産がおりず早朝に皇后定子崩御 |
1000/12/27 | 六波羅蜜寺で葬儀、夜、鳥辺野で土葬 |
1001/1/1 | 元旦節会停止 |
1001/1/7 | 白馬節会停止 |
1001/1/16 | 踏歌節会停止、賭射停止 |