(写真はWikipWikipediaより引用)
永観二年(984年)、藤原忯子が花山天皇に入内した。藤原忯子は藤原為光の娘で、姉は藤原義親の妻。藤原義親は摂政太政大臣藤原伊尹の五男である。藤原伊尹は藤原北家九条流の祖である右大臣藤原師輔の長男で、兄弟には藤原兼通、兼家、そして少し年の離れた為光がいる。藤原伊尹は忯子入内の時既に薨去していた。義親の強い後ろ盾はなくなっており、花山天皇だけがその力の源であった。
その年の十月二十九日、終日、雨であった。藤原忯子が徒歩で参入し入内した。輦車を免されなかったためである。
十一月七日、「大納言藤原為光の女藤原忯子を女御とする。」神祇官と陰陽寮が陣頭において連日の雨の祟りの御占を奉仕した。調落が行われ、舞人と陪従を侍所の前に召し、神遊と神楽が行われた。内蔵寮が、侍臣及び舞人、陪従の禄を賜った。三品中将が伺候して御衣を下給した。暁方、儀が終わった。
十一月十五日、頼忠の娘諟子入内が決まった。
十二月五日、朝光の娘姚子着裳の後入内。着裳に際して右大臣兼家は被物と馬二疋の引出物を持って行ったが、大臣が納言の家に向かう例はなく、天下の人は頗る驚いた。
十二月八日、一条大納言藤原為光の家に犬の死穢が有った。その穢れは禁中に入り交じった。
十二月十五日、頼忠の娘諟子入内。
十二月二十五日、諟子と姚子、女御宣旨。
一月四日、弘徽殿において御遊が行われた。御在所で、被物が有り、侍臣に及んだということである。甚だ奇異なことである。
五月十一日、弘徽殿女御が桂芳坊に於いて修法を行わせた。女御が陣中に於いて修法を行うというのは往古聞いたことがない。
七月十八日、卒去。