/活動日誌/閑話/16Day's 16Day's 2章の② 会津鶴ヶ城 2025-08-30 ( 初回配信 2025-08-30 ) facebook tweet LINE はてブ Pocket 4月8日、会津若松税務署を左手にして進み、右手の「お菓子の蔵太郎」を見学後、更に直進し、すぐに右折。福島県立博物館、新島八重の立像、司馬遼太郎文学碑を左手に眺め、東口駐車場へ車を進めた。鶴ヶ城廊下橋を渡り、行けるところは端から端まで立ち寄り、不遇であった松平容保を思いつつ、会津鶴ヶ城に入城した。(会津鶴ヶ城沿革)以下、会津鶴ヶ城公式ホームページ(https://www.tsurugajo.com/tsurugajo/)、およびWikipediaから引用。1384年、葦名直盛が黒川城の前身となる東黒川館を築いた。1589年、摺上原での戦いで葦名義広は黒川城をすてて白河に逃走し、6月11日、伊達政宗が黒川城に入城(翌年、豊臣秀吉に所領は没収された)1590年、蒲生氏郷が奥州仕置にて会津に移封され、町の名を黒川から「若松」へと改め、黒川城は改築し若松城と改めた。石垣や濠を備えた日本初の本格的な近世城郭を築いた。1593年、望楼型7重の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。1598年、氏郷の子の秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年、関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝は30万石に下げられ、出羽国米沢に移封。1601年、蒲生秀行が再び入城。1627年、伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は天守を層塔型天守に組みなおした。1643年、保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家の居城となった。1868年、会津戦争にて、会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は新政府軍に包囲され砲撃を受けた。徳川慶喜への恭順を示し続けた松平容保は旧幕府軍として戦うことを容赦なくされ、1か月間籠城の後、板垣退助による降伏勧告を受諾して9月22日開城。1874年、石垣だけを残し建物部分が全て取り壊された。1934年、国から「若松城跡」として史跡に指定された。1965年、明治時代初期に撮影された古写真をもとに天守閣が外観復元された。 石垣の石はとびきり大きかった。奥行こそわからないが、縦長も横長も177cmの私の身長を優に超えている。スズキのフロンクス2台分、2,3トンくらいだろうか?いったいどうやってこんな大きく重たい石を積み上げたのだろうとつくづく驚かされる。石肌に触れてみるが触れてみるだけで先人の苦労が伝わってくるはずもなく、ただただ歴史の重みに圧倒された。 日本国内で唯一、赤瓦を使用した天守閣、例年なら咲いているはずの桜には少し早く、まだほとんどがつぼみのままだったのが残念だ。早速城内に入ってみると、それほど大きくないが現存する石垣と塩蔵が出迎えてくれた。晴天の外に比べ少し冷っとした感じがある。1層から4層までは会津と鶴ヶ城(若松城)の歴史についての情報展示があり、結構な見ごたえがある。最上層の展望層から360度見渡せる会津の城下町は緑豊か自然があたり一面に広がっている。白虎隊自刃の地である飯盛山も見渡せ、確かな歴史を感じさせる。ここから見下ろす壮大な景色は、ここを治める者たちにとって大いなる勇気とともに一歩も引けない責任を同時に感じさせるものだったに違いない。 移築復元された茶室麟閣もある。一席600円で、すりおろしたつくねいもと米粉の皮で、小豆の皮を取り除き炊きあげた皮むき餡を包んだ薯藷饅頭がついて、お茶が飲めるようだ。朝4時に青森に着き、車を走らせ最初に着いた目的地、見どころが多く早くも2時間経ってしまった。次は喜多方ラーメンを探しに行こうか。 大きな石垣 濠 廊下橋 麟閣 茶室