/活動日誌/閑話/16Day's 16Day's 2章の② 会津鶴ヶ城 2026-03-21 ( 初回配信 2025-08-30 ) facebook tweet LINE はてブ Pocket 四月八日。会津若松税務署を左手に見ながら進み、右手の「お菓子の蔵 太郎」に立ち寄る。甘い匂いを背に、さらに直進してほどなく右折。福島県立博物館、新島八重の立像、司馬遼太郎の文学碑を左に流し見ながら、東口駐車場へ車を運ぶ。鶴ヶ城廊下橋を渡る。行けるところは端から端まで歩いてみよう。そう思わせる力が、この城にはある。不遇の生を歩かされた松平容保の姿が、ふと脳裏をよぎり、会津鶴ヶ城へ入城する。この城は、多くの名を持ち、多くの主を迎えてきた。(会津鶴ヶ城沿革)以下、会津鶴ヶ城公式ホームページ(https://www.tsurugajo.com/tsurugajo/)、およびWikipediaから引用。1384年、葦名直盛が黒川城の前身となる東黒川館を築いた。1589年、摺上原での戦いで葦名義広は黒川城をすてて白河に逃走し、6月11日、伊達政宗が黒川城に入城(翌年、豊臣秀吉に所領は没収された)1590年、蒲生氏郷が奥州仕置にて会津に移封され、町の名を黒川から「若松」へと改め、黒川城は改築し若松城と改めた。石垣や濠を備えた日本初の本格的な近世城郭を築いた。1593年、望楼型7重の天守が竣工し、名は「鶴ヶ城」に改められた。1598年、氏郷の子の秀行は家中騒動のために92万石から18万石に下げられ下野国宇都宮に移封された。越後国春日山より上杉景勝が120万石で入封。1600年、関ヶ原の戦いで西軍に加担した景勝は30万石に下げられ、出羽国米沢に移封。1601年、蒲生秀行が再び入城。1627年、伊予松山より加藤嘉明が入封。子の明成は天守を層塔型天守に組みなおした。1643年、保科正之が23万石で入封。以後、明治維新まで会津松平家の居城となった。1868年、会津戦争にて、会津勢の立て篭もる鶴ヶ城は新政府軍に包囲され砲撃を受けた。徳川慶喜への恭順を示し続けた松平容保は旧幕府軍として戦うことを容赦なくされ、1か月間籠城の後、板垣退助による降伏勧告を受諾して9月22日開城。1874年、石垣だけを残し建物部分が全て取り壊された。1934年、国から「若松城跡」として史跡に指定された。1965年、明治時代初期に撮影された古写真をもとに天守閣が外観復元された。 過去は失われても、人はもう一度、形を与えようとする。石垣の石は、ひとつひとつが異様に大きい。縦も横も、私の身長の177センチを優に超える。奥行きはわからないが、2、3トンはあるだろう。スズキのフロンクスが2台分。こんなものを、いったいどんな思いで積み上げたのか。石肌に触れてみるが、触れただけで理解できるような労苦では、とうていない。ただ、圧倒的な「重み」だけが、確かに伝わってくる。天守は、日本で唯一、赤瓦をのせる城だ。例年なら満開のはずの桜は、まだ蕾のまま。それがかえって、この城には似合っているように思えた。城内へ入ると、外の陽光とは打って変わり、ひんやりとした空気が満ちている。現存の石垣と塩蔵が、静かに迎えてくれる。一層から四層までは、会津と鶴ヶ城の歴史展示。想像以上に情報量が多く、足が止まる。最上階の展望層へ上がると、会津の城下町が三百六十度、視界いっぱいに広がる。飯盛山も望める。白虎隊が自刃した場所だ。この景色を、かつて城主たちはどのような気持ちで見ていたのか。希望と同時に、逃げ場のない責任が、胸にのしかかっていたに違いない。移築復元された茶室・麟閣もある。一席六百円。すり下ろしたつくねいもと米粉の皮で、皮むき餡を包んだ薯蕷饅頭に茶。だが、朝四時に青森に着き、車を走らせ、ここまで来た身には、やや贅沢に思えた。気がつけば、もう二時間。お土産は、鶴ヶ城刀鉛筆550円を2本、「さすけねぇソックス」605円を4足。しめて3520円。さて、次は――腹も心も、そろそろ次を欲しがっている。喜多方ラーメンでも、探しに行こうか。 大きな石垣 濠 廊下橋 麟閣 茶室