長徳元年正月二日、東三条院詮子さまの行幸の日がやってきた。
道隆さまは昨年末からの病悩が思いのほか悪く、行幸に参入できない。このことは帝が蔵人頭の源俊賢を遣わして詮子さまに伝えられた。
「関白の地位にいる者が供奉しないというのはもってのほかぞ」
詮子さまは身体を震わしながら、持っていた扇を使者に向かって投げつけた。
「誰のおかげで今の地位があると思っているのか。そんなことは絶対に許されない。文を持たすから待っておれ」
その文が帝の元に届いたのは昼つかたであり、既に詮子さまが行幸に出られた後だった。詮子さまの怒りは収まらなかった。行幸の間中、機嫌が直ることはなかったという。
正月五日、叙位の儀が行われたが、道隆さまはは御簾の中に伺候していた。病悩ゆえに堪えがたいのだろう。
正月十一日、大切な除目始、関白道隆さまは直衣姿で御簾の内に伺候していた、相当具合が悪そうだ。
二月三日、東三条院詮子さまの宮人と皇后遵子さまの宮人との間で騒乱があった。このお二人の確執は根が深い。円融院さまが帝であられた時、中宮媓子さまがお亡くなりになられ中宮職が空位となったことがそもそもの発端だ。翌年、一条天皇をお産みになられた詮子さまは中宮の地位は手に入れたものだと大喜びした。しかし御子のおられない遵子さまが選ばれて中宮となったのだ。どうにもやりきれない思いの詮子さまは円融天皇とは居を別にして次第に御側を離れていった。遵子さまはその後も御子をもうけなかったために、陰口で「素腹の后」と呼ばれた。中宮職を巡る一連の経緯が元で騒乱となったのだ。こんなことも詮子さまの苛々に拍車をかけていった。
二月二十六日、遂に道隆さまは病悩を上表した。
二月二十八日、女院詮子さまが石山詣でをする。道長さま、道頼さま、道綱さま、惟仲さまがお供に供奉したが、道隆さまは病悩のため参上できない、代わりに伊周さまが車に乗ってお供に供奉した。伊周さまは粟田口で車から降り、詮子さまの御車の轅に就いて帰洛すると申しあげた。出発する時に詮子さまにさんざん言われた道隆さまへの恨み言と嫌味言を今まで何とか堪えてきたのだがもう我慢の限界に達したのだろう。道長さまは馬に騎って御牛の角の下に進み立ち、伊周さまを見下ろし、車副えの者たちに向かって言った。
「日が暮れてしまう、疾く車を御出しなさい」
伊周さまは、叔父ではあるが位階が下の道長さまから向けられる高圧的な態度に戸惑いと驚きを感じながら、得も言われぬ怒りを同時に覚えた。一瞬どうすべきか迷ったが、女院詮子さまの御車の邪魔をする訳にもいかず、しぶしぶその場を離れた。詮子さまからの御言葉はとうとう無かった。
それから数日後、道隆さまが伊周さまを関白とするように奏上した。そのことを行成さまから聞いた詮子さまはすぐさま内裏に参上した。
「何度も話している通り、関白になるのは兄弟の順序によるべきです。それに、伊周は回りの者からも評判が悪い上に少し傲慢なところがある。いつか必ずあなたの憂いになります。くれぐれもこの事をお忘れにならないでください」
帝の機嫌は不快で道隆さまの奏上に許容は無く、伊周さまは関白にはなれなかった。
四月六日、道隆さまが出家なされ、四月十一日、入滅された。
道隆さま没後の長徳元年四月二十七日、道隆さまの弟の道兼さまが関白に選ばれた。しかし、道兼さまも病魔に冒されており、その年の五月八日、道兼さまは死去。三日後の五月十一日、道長さまに内覧宣旨が賜わられた。
六月十九日、道長さまが右大臣になられ、伊周さまの位を遂に追い抜いた。国母であられる詮子さまの御意向が勝った瞬間である。