(写真はWikimedia commonsより引用)
正暦元年1月25日(990年2月23日)に藤原定子は入内する。
同年5月5日、兼家が関白を辞任。
同年5月8日、兼家の長男道隆が関白に就任。
同年5月26日、道隆が関白を辞任し、摂政に就任。
同年10月5日、定子、立后。
同年7月2日、兼家が入滅。
同年8月25日、定子、職御曹司から里第に退出。
同年9月1日、右中将伊周、蔵人頭に就任。
同年9月30日、伊周、実資に立后の際の儀式の日記を借りる。
同年10月5日、定子、立后の儀。
藤原兼家の孫、藤原道隆の娘である藤原定子は晴れて立后の儀を迎える。その様子は実資の小右記に詳細に記されている。
未剋、一条天皇が紫宸殿に出御し、立后の儀が開かれる。
承明門、建礼門を開き、公卿らは承明門から参入した。宣命を賜わった。
実資はこう書いている。
「終わって、しばらく軒廊の東第二間に立ったく立つ所を云々して、 定まらなかった。調べて見なければならない。〉」実資が覚えていたやり方と所作が異なっていたのだろう。こういうところ、実資は本当に真面目だ。
宣命使が宣命両段を読み、群臣は両段再拝した。その後宣命使は、左廻りに元の列に加わった。序列どおりに承明門から退出した。入る儀のとおりだった。
除目が終わって、左府以下は敷政門から退出した。
申剋の頃、東三条第南院に参った。「故入道摂政(藤原兼家)が薨逝したばかりで既にこれは喪家である。調べなければならない。」と記している。
更に実資は、「公卿に白い袿、侍従に疋絹か。戌剋の頃、儀が終わった。伝え聞いたことには、『内弁の納言は、まだ承明門が開いていないのに大舎人を召した』と云うことだ。 失誤の甚しいものである。
本当に実資は真面目で律儀で、儀式通だった。家にはかなりの量の儀式資料(日記)を保管しているようだ。とにかく信頼できる人物である。
その後しばらくして、実資と出世した伊周は儀式のたびに、そのやり方について揉めることが多くなっていく。だが、そのほとんどが伊周の間違いであった。さらに伊周はその間違えたやり方を強引に押し通ていくのだ。恐らく、先輩公卿らから相当な不満を持たれていたことだろう。そもそもこういうところが失脚する遠因になったのではないだろうか?
同年10月22日、新后定子15歳、内裏に参入する。
(小右記 引用)
内裏に参った。今日、立后の儀が行なわれた。未剋、天皇は紫宸殿に出御した。左府(瀬雅信)が陣座に伺候した。内記を介して宣命の草案を摂籙(道隆)に奉られた。すぐに摂政は内裏に参られた。右大弁(平)惟仲を介して清書の上卿に覧せられた。すぐに外弁に出たく靴を着し、隠文の帯を用いた。〉。左府は陣座に伺候したまま、内弁を奉仕しなかった。故障を申されたのであろうか。大納言(藤原)朝光を内弁とした。承明・建礼門を開いた。少納言が帰り出た。「公卿は承明門から参入した。諸大夫が列に参った」と云うことだ。内弁は中納言右兵衛督(源)伊陟を召した。称唯して、列を離れ、参上した。 内弁の後ろに進み、宣命を賜わった。終わって、しばらく軒廊の東第二間に立ったく立つ所を云々して、 定まらなかった。調べて見なければならない。〉内弁は退き、庭中の列に下り立った。終わって宣命使が版位に就き、宣命両段を読んだ。群臣は両段再拝した。終わって宣命使は、左廻りに元の列に加わった。終わって序列どおりに承明門から退出した。入る儀のとおりであった。陣座に伺候した。大納言 (源)重信・左大将(藤原)済時、参議(藤原)佐理・(藤原)時光は遅参し、直ぐに陣座に伺候した。左相府 (雅信)と左大弁(藤原懐忠)は、摂政の直盧に向かった。宮司除目が行なわれた〈中宮大夫に中納言(藤原) 道長、中宮権大夫に(藤原)道綱。皆、これは重服である。中宮亮に(大江)清通と左中弁(源)扶義、中宮大進に(高階)明順、中宮権大進に(藤原)道行、中宮少選に□□、属。〉除目が終わって、左府以下は敷政門から退出した。除目の下名や諸陣の事は、左府は春宮大夫(藤原公季)に委ねた。申剋の頃、あの宮〈東三条第南院。故入道摂政(藤原兼家)が薨逝したばかりである。すでにこれは喪家である。調べなければならない。〉に参った。左大臣(雅信)は先ず隠所に入り奉った。大納言重信を貫首とした。中宮亮清通を介して、公卿が参入したということを啓上させた。返事を奉って、庭前に列立した。侍従が従った。拝礼が終わって、座に着した。次いで左府が座に着した〈座は西対の母屋にあった。殿上の侍従の座は南廂にあった。他の侍従の座は南廊にあった。〉。「一・二・三巡は、亮および近親の非参議の人々」と云うことだ。 中宮大夫は重服であったので、見えなかった。四巡が終わって、左府が退出した。「五巡が終わって、 侍従以上の縁があった」と云うことだ。公卿に白い袿、侍従に疋絹か。戌剋の頃、儀が終わった。伝え聞いたことには、「内弁の納言は、未だ承明門を開かない頃に大舎人を召した」と云うことだ。 失誤の甚しいものである。