(写真はWikipediaより引用)
永祚元年(989年)十月二十六日、祖父である摂政藤原兼家が裳の腰を結び、着裳の儀が催された。何度も盃を酌み交わし、近衛府の官人が舞を見せたり歌ったりし、公卿たちは衣を脱いで頭に被ったりと、とにかく盛大な宴が催された。
やっと、もう一人の主役である藤原定子が登場した。枕草子は、この藤原定子と清少納言の戦いの歴史なのである。
(以下、小右記から引用)
二十六日、甲戌。藤原定子着裳
内裏に参った。両源納言(保光・伊陟)、修理権大夫・左大弁と一緒に、内大臣の女(藤原定子)の着裳所 〈東三条第南院の寝殿。〉に参った。「戌剋、着裳の儀が行なわれた」と云うことだ。「摂政が裳の腰を結ばれた」と云うことだ。公卿が多数、参り訪れた。頻りに盃酌が有った。内大臣は座にいた。深夜、公卿は穏座(宴席)に出た。摂政は、この間、出て坐られた。盃酒を頻りに重ねた。上下の者が管絃を行なった。近衛府の官人が、或いは舞い、或いは歌った。一、二人の公卿が、衣を脱いでこれに被けた。内大臣は、馬五疋を摂政・頭中将道頼・弁少将(藤原)伊周に奉った。秉燭の頃、また、種々の贈物や御前の膳が有った。親昵の公卿が、これを執った。「摂政の御許〈東対にいらっしゃった。〉に於いて、 被物が有った」と云うことだ。今夜、公卿・殿上人・太政官の上官に禄を賜わったことは、各々、差があった。
源大納言・按察大納言・藤中納言・左衛門督・源中納言・春宮大夫・源中納言・右衛門督、左兵衛督・勘解由長官・大蔵卿・修理権大夫、修理大夫・三位中将・左大弁である。