倉本一宏著現代語訳小右記から引用しています
宮内庁ホームページ(https://kyoto-gosho.kunaicho.go.jp/building/2A1)から引用しています
実資の書き残した小右記から、中関白家没落の軌跡を追ってみよう。
七月五日
中宮の女房が、昨日、陰陽寮の楼に登った。また侍従所に向かって巡検した。四位少将源明理が直衣と烏帽子を着して陪従した。左衛門負の陣官はこれを見て怪しんだ。
七月二十四日
右大臣(道長)と内大臣(伊周)が、仗座において口論を行った。あたかも闘乱のようであった。太政官の上官及び陣官の人々や随身は壁の後ろに群がりこれを聞いた。非常を嘆いていた。
七月二十七日
七条大路で合戦が有った。中納言隆家の僕従と、右府道長の僕従が行ったものである。矢を放って二人を射た中納言の従者の玉手則武が捕らえられた。
八月三日
右府(道長)が談って云ったことには、『隆家卿が、もし下手人を奉らないのならば、内裏に参ってはならないとの、一条天皇の綸旨を給わった』と。
返る年の一月十六日
右府の書状によると、「花山法皇は、内大臣・中納言隆家と、故一条太政大臣藤原為光の家で遭遇した。闘乱が行われた。隆家の従者は御童子二人を殺害し、首を取って持ち去った」
一月二十五日
除目に、内大臣の円座は取られていた。
二月五日
平致光、及び兄弟の宅に、精兵を隠しているという風聞がある。検非違使を遣わして捜検させるように。五位以上の宅であるとはいっても、事情を奏上せず、直ちに捜検するように。
二月十一日
天皇の仰せにより中宮定子の行啓延引。内大臣伊周と中納言隆家の罪名を勘申するよう頭中将藤原斉信が陣座に出て、右大臣に命じた。満座は傾き嘆いた。
三月二十八日
右大臣が云うには、「東三条院の御病悩は極めて重かった。院号と年爵、年官を停められたいということを昨夜奏聞された。厭物を寝殿の板敷の下から掘り出した、ある人の呪詛である」と。
四月二十四日
除目。
太宰権帥正三位藤原伊周
出雲権守従三位藤原隆家
伊豆権守高階信順
淡路権守高階道順
四月二十五日
伊周は、中宮の御所に籠っていた。すでに天皇の許容はなかった。
四月二十八日
中宮は権帥伊周と手に手を取って離れられなかった。
五月一日
出雲権守従三位藤原隆家を、今朝、中宮に於いて捕獲して、配所に遣わした。夜大殿の戸を破り壊した。そこでその責に堪えず、隆家は出てきた。網代車に乗せた。
五月二日
権帥は去る晦日の夜に、中宮から道順朝臣と一緒に愛宕山に向かいました。昨日、后宮定子は中宮権大夫源扶義の車に乗られ、その後、検非違使が夜大殿及び疑わしい所を捜検しました。組入天井や板敷を外して、皆、実検しました。后の御為に、限り無い大恥である。また、「后は昨日、出家された」ということです。
五月四日
伊周は出家して、本家に帰った。
六月九日
中宮御所が焼亡。先ず、二位法師高階成忠の宅に移られ、それから車に乗って明順朝臣の宅に移られた。
ここで、道隆が入滅した頃から、伊周が失脚し中関白家が没落していったまでをストーリー仕立て(道長入滅→伊周没落→伊周その後)で振り返ってみようと思う。