「どうして今まで清少納言の事をまともな人だと思っていたのだろう」
根も葉もない噂を真に受けた頭中将斉信さまから、とても酷い言われ方をされているようだ。
殿上においても酷く仰られていると聞くので気にはなっていたのだが、本当の事ならともかく、放っておいても自然と私の普段の行いが耳に入り考え直してくれるだろうと笑い、聞き流していた。
清涼殿の北側にある細長い部屋の黒戸の前を通る時にも、私の声が聞こえる時には袖で顔を隠してまで、私の方には全くと言っていいほど目もくれず、とてもお憎みになられるのをとやかく言わず見ないようにして過ごしていた。
二月の末頃、雨がたくさん降って退屈な時、斉信さまは宮中の御物忌で部屋に籠っておいでだった。
「『さすがに物寂しくて仕方がない。清少納言に恥をかかせてやろう』と言ってたそうよ」
女房たちが口々に伝えてきた。
「まさか、そんなことはしないでしょう」
そんなやり取りをしながら日中は局にいて夜から参上した。
長押の近くに火を取り寄せてみんなで集まって、特定の偏の字をいくつ知っているかを競う偏継をしていた。
「あぁ良かった。早くいらっしゃい」
私を見つけて皆がそう言ってくれるけれど、宮さまは御寝みになられていたので少しがっかりした。いったい何のために参上したのだろうかと感じられて炭櫃にあたった。
「清少納言さまに御用があります」
主殿司の役人が来てとてもはっきりとした口調で私を呼んでいる。
別の人に聞いてもらったが、人を介してではなく直接私に伝えなければならないことがあるというので出て行った。
「これは頭中将殿からの文です。御返事を早くお願いします」
私の事を激しく憎んでいるというのにどのような御文をよこしたのだろう。急いで見る必要はないだろうと思い、「そのうち返事します」と言って懐に引き入れて局に戻った。
また女房達の話を聞いていると先ほどの人がすぐに戻ってきて、「『返事を貰えないのなら、その文を取り戻してこい』と命じられました。早く返してください」と言う。妖しくいかがわしい文なのかと思い見れば、青き薄様の紙に真名でとても綺麗に書き上げているが心ときめくような文ではなかった。
——蘭省の花の時の錦の帳のもと 末はいかにいかに
蘭省花時錦帳下 廬山雨夜草庵中 白氏文集 巻十七 廬山草堂 夜雨独宿
宮さまがいらっしゃったら見ていただくのだが。物知り顔でたどたどしい真名で返すのも見苦しい。考える時も与えられず急き立てられるので、文の奥の余白に炭櫃の消えた炭を筆の代わりとして、『草の庵を誰かたづねむ』と書きつけて取らせた。料紙は斉信さまが書き付けたものだから何も言われないだろう。筆は使わずに炭櫃の消え炭を使ったから筆跡もとやかく言われないはずだ。第四句をそのまま答えては面白くないから、斉信さまと同じように歌が上手な公任さまの下の句を借りた。何も問題はないはずだ。その返事が来ないまま皆寝てしまい翌朝早く局に戻った。
「草の庵はいらっしゃいますか。草の庵はいらっしゃいますか」
源中将宣方さまの声がした。
「そのような、人では無い者はここにはおりません」
「あぁ良かった、こちらにいらっしゃったんですね。上の局まで行くしかないと思ってました」
「頭中将斉信さまの宿直所にて大勢の者が集って色々な人の噂話をしていました。『清少納言とは、関係が絶え果てたとまではいかないが、あちらから何か言い返してくるだろうと思って待っていた。何とも思われてないようでつれないのがなんとも憎らしくてね。今宵良いか悪いかはっきりとさせてけりをつけてしまおう。』ということになり、皆で相談して文を出したのですが、『「只今は見るまじ」とて局に戻ってしまった』と、主殿司がすごすごと帰って来ました。『ただ袖を捕まえて、有無を言わさずに返事をもらってこい。もしもらえないのなら文を取り返せ』と注意を与えられて、あれほどひどく降る雨の盛りにもう一度使いに行ったところ、とても早く帰って来ました。主殿司が『これを』と言ってさし出したのは、こちらが出した文だったので返してきたのだと思ったのですが、斉信さまが驚きの声をあげたので皆が集まって来ました。『大変な食わせ物だ。白氏文集にも長け、更には公任の歌まで盗んでしまった。見事なものだ。関係を絶つことはできそうにない』と大騒ぎして、『これに上の句をつけて返そう。源中将つけよ』など言うのです。夜が更けるまで上の句をつけようと悩んだのですが、とうとうできませんでした。この事は必ず語り伝えるべき事だと皆で定めました」
こちらがとても恥ずかしくなるようなことまで聞かせられた。
「あなたの御名前は、今は草の庵とつけました」
宣方さまは、言いたいことだけ言い終わると急いで立ち帰ってしまった。
とても恥ずかしい渾名が末代まで伝えられるのは困ったことだなぁと考えていると、今度は以前連れ添っていた修理亮則光がやってきた。
「何にも増して代え難い喜びを伝えに、上の局にやってきました」
「何かあったの? 官を得たとも聞かないし」
「いや、本当に嬉しい事が昨夜ありまして、この朝が待ち遠しくてなりませんでした。こんなに名誉なことはなかなか起きることではありません」
則光も源中将が語っていった昨夜の事を始めから話し出した。
「『この返事如何では、清少納言という者がいるということすら思うまい』と、頭中将が言っていた時に、最初、返事を寄越さないのは中々良かった。ですが、返事を持ってきたとわかった時はどうなってしまうのだろうかと心が潰れてしまいそうでした。その返事の出来が悪ければ自分のためにも悪いことだろうと思ったのに、一通りの出来栄えではなくとても素晴らしいもので、そこらの人みんなが褒め感心して、『兄よ、聞け』と仰られるのです。内心とても嬉しいけれど、『そちらの方面には疎く、良くわからないのです』と申し上げたら、『評価を聞き、理解しろという事ではない。ただ人に語って回れとて聞かするぞ』と仰られる。少し口惜しい思われ方でしたが、『これに上の句をつけようとしても、全く言葉がみつからない。殊更にこれに返事をしなければいけない訳でもない』などと言い合わせ、下手な事を書いては却って引け目を感じてしまうと言って、夜中までずっと皆で起きていました。これは、私のためにも、あなたのためにもとても大きな喜びではないでしょうか。少々の官を得たとしてもこれほどの喜びは感じないでしょう」
なるほど、本当にそんな大勢で謀をしていたとは本当に悔しいことで胸がつぶれそうに感じる。この『妹兄』といふ事は、帝まで皆知ることになった。殿上でも官名で呼ばれないで、『せうと』と名付けられたということだ。
女房達と話などしている時に宮さまからお召しがあったので参上したら昨晩のこの事だった。帝がお渡りになられ宮さまに語り聞かせられたようだ。
「男どもはみな扇に書いて持っているそうだ」と仰せられるのに驚き、それのいったいどこがそんなに広まる理由なんだろうと不思議に思った。
その後、頭中将は袖几帳などを取り除いて私に対する態度を思い直してくれた。局にも良く顔を出されるようになられ、時が経つにつけ徐々に親しくなっていった。