996/12/16 脩子内親王誕生
997/3 東三条院詮子の病気平癒で大赦
997/6/22 「中宮定子、職御曹司に参入。はなはだ稀有の事である」と実資が書き記す。一度出家した者が戻ってくることは許されないのである。
職の御曹司では木立のたたずまいひとつにさえ、否応なく時代を感じさせられる。建物は無駄に高く、どこかひんやりと空虚で、人の気配が抜け落ちたような寂しさがある。母屋には鬼がいるという。その気配を避けるように南の廂に御几帳を立てて、母屋の廂の外側にさらに廂を出して作った部屋に女房は伺候している。人は見えぬ物に畏れを感じるのだ。
近衛の御門から左衛門の陣に前駆が入ってくる。前駆の声が滑り込んでくる。度重なれば耳も慣れる。声の調子だけで、誰が通るのか見当がつくようになるのだから不思議なものだ。
「それ彼ぞ」
「あらず」
言い当てた者が、「さればこそ」など言うのも楽しい。
夜も昼も殿上人の訪問が絶えることがない。上達部が退出したり参内したりする時に、特別に急ぎの用事がない時は必ずこの職の御曹司に立ち寄られていく。ここがひとつの澱みであり、溜まりであるかのようだ。
今宵は立蔀のところで、蔵人頭と太政官中弁を兼務されている頭弁行成さまが長い間女房と話をしていた。
「それは誰ぞ」
「弁侍ふなり」
「何をそんなにも長く語りあっているのですか。大弁さまが来られたら、中弁の行成さまのことは捨て置かれてすぐに誰もいなくなってしまいますよ」
「誰がそういう事をあなたにお教えしたのか、そういう事をしないでおくれよと話していたんです」
行成さまは笑いながら、軽くいなす。水のような受け答えだ。
行成さまは、みずからを誇るそぶりを人前で見せることがない。ただあるがままに在る。その姿を、見る者は表面だけで測り、分かったような口をきく。だが、内にあるものの深さは、そう容易に見透かせるものではない。私はそのとても深い御心ざまを知っているつもりでいるから、「並の人物ではありません」と宮にも申し上げているし、宮さまもその事は先刻ご承知の事だ。
「『女はおのれをよろこぶ者のために顔づくりす、士はおのれを知る者のために死ぬると言いたる』と言うではないか」
予譲遁逃山中曰 「嗚呼 士爲知己者死 女爲説己者容」 史記 刺客列伝 第二十五
行成さまは、私の宮への心ばえを認め、また自分を知る者としての私に応じようとする。刈っても刈っても芽を出す遠江の川柳のように、関係とはそういうしぶとさでつながるものかもしれない。
若い女房たちは、言葉を放つ。
あられ降り遠江の吾跡川柳 刈れどもまたも生ふといふ 万葉集
若き女房達はただ悪口を言っては嫌い、見るに耐えないほど歯に衣着せず、遠慮というものをどこかに置き忘れてきたかのように言葉を放つ。
「この方とは、どういうわけか会うととても気まずくなってしまう。他の人のように読経したり歌いなどせず、まわりに合わせたりもせず、その上更に誰にも声もかけず話もしない」
「女は、目は縦様に付き眉は額に生えかかり鼻は横ざまにあったとしても、ただ口つきに愛敬があって顎の下や頸などが綺麗で声が可愛らしい人を思ってしまう。ただ、顔が憎らしいのは嫌だ」
行成さまはそう仰られるので、顎が細く愛敬劣る人はむやみやたらと目の敵にして、宮さまにさえ悪く告げ口をする。
女房を介して宮さまに何かを申し上げる時でさえも、一番最初に取り次いだ私をわざわざ探し求め局に下がっている時でも呼び寄せ、それも無理な時は局に来てまで言いに来る。里居の時には文を書いてでも、また自分から里に来てまでも私を介在させようとし、すぐに参上できない時には、他の者を参上させてほしいと言って来る。私以外の他の女房を紹介し、その申し出を辞退するのだが納得してくれずにいらっしゃる。
「何事もあるがままで定めず淡々と進めて行くことこそ良いことだと思います」と意見を申し上げるのだが、「我が元の心の本性、改まらざる物は心なり」と仰られる。
??不可改者性 白氏文集 巻六 詠拙
「さて『憚りなし』とは、いかなる事を言うにか」
??過則勿憚改 論語 学而篇
と不思議がると、笑いつつ
「お主と仲良しなどと皆にも言われる。このように親しくしているのだから何を恥ずかしがることが有ろう。顔を見せてくれても良いでしょう」と仰られる。
「とても憎らしい顔をしています、『そのような人は嫌だ』と仰られるので」
「憎らしい顔なのだな。さらば見せてくれるな」
自然と顔が見えそうな時でも顔を塞ぎなどして本当に見ない。言葉は正直だ。だからこそ、軽く受け流せぬ。
三月の末ともなると、寒さはほどける。冬の直衣は、もう重たい。着ているほうが場違いに思えることさえある。殿上人など、袍ひとつ引っかけただけで、宿直のまま平気な顔をしている者もいる。
翌朝、日が差し込むまで、式部のおもとと二人、廂に寝転んでいた。身体はまだ夜の底に沈んでいる。そこへ奥の遣戸が開いて、帝と宮さまが、するりと出てこられた。
起きる間もなく慌てふためる。そのままの姿を見られた。帝も宮さまも、体いっぱいで笑っておられる。
宮さまは、唐衣を髪の上にうち着て夜具の宿直物やら何やらにくるまり埋もれている私たちの所にいらっしゃって、陣より出で入る者などを御覧になる。帝と宮さまがいらっしゃることを知らないで、殿上人が寄って来て話をしていくこともあるのを、「私たちがいる素振りは見せないで」とお笑わせになる。
「二人ともすぐ用意して来て」
暫く御覧になられた後、宮さまはお立ちになり仰せられた。
「只今、顔など繕いてから参ります」
私たちはすぐには参上せずに、宮さまと帝の素晴らしい様子をとめどもなく話していた。すると、南の遣戸のそば、几帳の横木の突っ張りが引っ掛かり、簾の裾が少し開いているところから、黒い影が覗いた。則光の弟の則隆が居るんだろうと思って気にもしないで色々な事を話していた。その時、とてもにっこりとした顔がすっとさし出された。見上げると則隆ではない。
??しまった、何ということだろう
胸の奥で何かが跳ねる。遅い。笑い、騒ぎ、あわてて几帳を引き寄せる。だが時間はもう戻らない。行成さまだった。
見られまいと気をつけていたものを、これでは骨折り損である。式部のおもとはわたしの方を向いていたため、顔までは見られていない。
「はっきり拝見いたしました」
御簾の向こうで立ち上がる気配があり、そのまま出て来られる。
「則隆と見誤っていました。『見ない』と仰せられていたのに、ずいぶん念入りにご覧になりましたね」
そう言うと、行成さまは悪びれない。
「寝起きの顔というものは、なかなか面白いらしい。そう聞いたので、ある人の局で試してみた。うまくいった。だから、もう一度と思ってね。帝がおいでの時から、そこにいたのに、気づかなかったのか」
淡々としている。感心しているのか、呆れているのか、こちらには判別がつかない。
それ以来である。
行成さまは、局の簾をくぐることに、いささかの躊躇も見せなくなった。まるで初めからそういう場所であったかのように、平気で中へ入って来る。