三月二十八日、実資さまに内裏からお召しがあった。
「東三条院詮子さまの御病悩は軽くはない。恩赦を行うように」
蔵人頭行成さまから帝の言葉を伝えられた実資さまは、翌朝、東三条院に参上し、右大臣道長さまに拝謁した。
「東三条院さまの御病悩は極めて重かった。内大臣の呪詛に違いない。厭物を寝殿の板敷の下から見つけたのじゃ」
道長さまと実資さまが阿闍梨仁海僧正とお会いになられた時、中門廊に急に現れた暴悪の童が弓箭で道長さまを射った。道長さまにこの童は見えなかったが、僧正は身を挺して道長さまを護られた。矢は僧正を射抜き股に当たり、この童は一瞬にして消えていなくなった。十日ほど後に実資さまが僧正の御許に参られ仔細を尋ねると、僧正は股を出し矢目を見せてくれた。
「これは太元明王が射られた矢です。内大臣がこの修法を行い、右大臣を呪詛させたのです」
大元法は怨敵、逆臣の超調伏、国家安泰を祈願する真言密教であり、帝がいる宮中でのみで行われ、臣下がこの法を修めることは許されていない。
四月一日、太元帥法を修法する道場として名高い法琳寺で伊周さまが臣下の行ってはならない太元帥法を修して道長を呪詛していたことが奏された。
四月二十四日、除目があった。
参議 藤原斉信
太宰権帥 正三位藤原伊周
出雲権守 従三位藤原隆家
伊豆権守 高階信順
淡路権守 高階道順
伊周さまと隆家さまは、その冠位を取り上げられた。斉信さまは道長さまの計らいで、蔵人頭から参議へ昇進した。伊周さまを追放することが出来た恩賞の代わりなのだろう。官を得ることが出来るほど、斉信さまはこの事に深く関わっていた。
伊周さまと隆家さまは二条邸に籠っていたところを検非違使に取り囲まれた。美しい装束を着ている者が、南面に参上して、厳かに宣命を読み始めた。
「太上天皇を殺し奉らむとしたる罪一つ、帝の御母后を呪はせ奉りたる罪一つ、公家より外の人がいまだ行わざる大元の法を、私に隠して行わせ給える罪により、內大臣を筑紫の帥になして流し遣わす。又中納言をば、出雲権守になして流し遣わす」
読み終えた途端、二条宮の至るところでどよめき泣く声が響き渡る。この宣命を読んだ人もこの声を聞き慌て、心をしばし失った。検非違使たちでさえも溢れ出る涙を止めることが出来ない。そのあたりにいた人々も泣き声に心惹かれて涙が止まらない。
夜中になり検非違使もすっかり寝入ってしまったので、伊周さまはこの機に乗じて、明順さまとともに二三人で外に出ることが出来た。月はとても明るいがこの場所はとても薄暗い。木の間から漏れ出づる僅かな月明りを頼りに道隆さまの眠る木幡に着いた。
伊周さまは、父親の道隆さまにも子孫にも顔向けが出来ないと思い、一時は命を絶とうと考えた。
「人よりも恵まれた有様を与えられていた。自らの宿世果報により今はそれら全てを失ってしまった。宮さまも懐妊しており、本当なら御子のことに心を砕いていく時期だというのに。自分も隆家もこのようなことになってしまい、涙に暮れさせてしまった。とても可愛そうなことをしてしまった。御産の時に力になることすら出来なくなってしまった。今宵のうちに身を失くしてしまおうか」など、泣く泣く申しあげている。聞く人さえいない所なので、明順さまも声を惜しまずに泣き崩れた。
父への懺悔を終え、二条邸へ戻った伊周だったが、夜が明けてしまえば今日こそは限りと、誰もが思っていた。
「宮を隠し奉りて、塗籠をあけて、組入の上などをも見よ」
宣旨があるので塗籠まで見てみるのだが、畏れおおくも宮さまがいらっしゃるので検非違使も普段通りにはいかない。やっとの事で伊周さまを見つけたのだが、宮さまと北の方貴子さまは伊周さまの手をしっかりと握り離さない。
「几帳越しに宮の御前を引き放ち奉れ」
宣旨があるが、検非違使も人の子、そう簡単に出来るものではない。「疾く、疾く」と何度も繰り返し言うが、その場からは一歩も動かない。
暫くして伊周さまは観念して出ていらっしゃった。検非違使は宮さまがいらっしゃるので申し訳ない気持ちでいっぱいだった。伊周さまの近くへ御車を寄せてお乗りになってもらう。母の北の方貴子さまは伊周さまの御腰を抱いて続いてお乗りになってきた。「母北の方、帥の袖を捉えて乗りこんできました」と奏上すると、「いと便なきことなり。引き離ちて」とあるが、離れていただく方法がわからない。ただ山崎まで行きますとお乗りになってしまわれた以上、どうすることも出来ない。為す術もなく御車を引き出した。
五月一日、宮さまと北の方貴子さまは出家なされた。
六月九日、中宮御所の二条北宮が焼亡した。宮さまは二位法師高階成忠の宅に移られ、それから車に乗って明順朝臣の宅に移られた。宮さまが二十五歳になられた時の出来事だった。