外出する時には必ず戸締りをする。いつからだろう? そういえば昭和30年代生まれの私が子供の頃には、家にはじょっぴん(鍵)などかけていなかった。一部のお金持ちを除いて他の家もほぼ同じだった。室蘭に生まれ育ったが、決して室蘭だけの話ではなかったはずだ。じょっぴんは、悪さをした時に家から外に出され、家の中に入れないようにかけられるものだった。真っ暗な寒い夜に外に出された時は、心細くてどうしようもなかった。大人になり都会に就職する頃になると、鍵をかけて出ることが当たり前になっていった。私にとって鍵は泥棒対策になった。ピッキングという技で簡単に錠前を開けられる空き巣にあうことが珍しくなくなったからだ。そして鍵は進化した。様々なタイプのシリンダー錠が生まれたのだ。私の子供たちの時代には、家に誰か人がいる時は鍵などかけなかったが、泥棒が多くなり防犯対策がしっかりするにつれ、犯罪も徐々に巧妙になっていく。宅配業者を装った強盗なども出没する世の中になり、遂にはどんな時でも鍵をするようになった。家族団らん中に強盗が押し入ってくる危険性すら排除できなくなった。
防犯という観点では、まだまだ進化は止まらずに続いていく。今までは鍵を開けられない対策だったが、今度は鍵が開けられてしまった時の対策が進んだ。警備保障会社との契約がそれだ。365日24時間、どんな時でも侵入を検知した時には、防犯ベルが鳴り響く。犯人への威嚇と、居住者への危険通知、さらに現地へ警備会社の警備員が急行する。もちろん警察への通報も同時に行われる。消防への通報も同時だ。警備保障会社へ依頼しなくても、自身でもある程度の防御は可能になった。監視カメラと遠隔監視、即時通報なども可能となったのである。近所の人と連携すれば、警備保障会社の警備員よりもっと早く駆け付けられるに違いない。
ここまでは防御側の話だったが、「攻撃は最大の防御」という言葉もあるように、攻撃力だって必要だ。仮に防御ラインを突破されたとしよう。強盗にだって一分の利がある。今、強盗しなければ生命の危険性があるとしたら、それこそ命がけで向かって来るに違いない。武器だって携行しているはずだ。こちらは家族団らんの真っ最中である。緊張感など1ミリほども持ち合わせていない。そもそも士気に相当の開きがある上に、強盗は用意周到に計画された自分にとって最も使いやすいであろう武器を備えているのだ。これほどの戦力差がある相手に対してどうやったら家族を守る戦いを繰り広げることが出来るのだろうか? 答えは至極簡単である。相手を上回る武器、最低でも差し違えることが出来る武器を持つことだろう。強盗だって自分の生命は大切である。一か八かのリスクを背負って勝負に出るとはそうそう思えない。
個人レベルだって、最低でもこれくらいの準備はする。仮に私の家が不運にも強盗にあったとしよう。最悪のケースだって考えられる。ただ、その場合だって、知り合いや友人たちは悲しんでくれるだろうし、隣近所さんも冥福を祈ってくれる。だが、それで終わりである。仮に私の家がなくなったところで、日本と言う国は消滅などしない。次の日も全体的には変わらぬ日常が待っている。だが、これが日本と言う国だったらどうなってしまうだろう? 私の家がなくなってしまうこととは全くその意味合いが変わってくる。国が有るからこそ守られていた国民は、その瞬間、他国に対して全くの無防備な状態を露呈する。
ロシアによるウクライナ侵攻で戦争状態に入ったが、NATOは「兵力は投入しない」と宣言した。この宣言によりロシアは侵攻を優位に進められてきたのではないのだろうか。「兵力は投入しない」ではなく、なぜ「世界の正義の元に正しい行動をとる」と言葉を濁さなかったのか? そんな疑問を強く感じるのだ。
日本は、太平洋戦争終結後、アメリカによる「核の傘」を盾に世界と一見対等に付き合って来た。しかしそれはあくまでアメリカという大樹があったからだけに過ぎない。311の教訓を生かして原発の稼働を全面的に中止する宣言を行ったドイツの元首相メルケルは、311の翌年3月10日、日本にいた。翌日が3月11日だというのに、その日を明日に控えてメルケルはドイツに帰っていった。仮に日本が世界にとって重要な国だと判断されていれば、翌日の式典まで出席してから帰っただろう。
アメリカとの間に交わされた安全保障条約は片務契約である。NATOのような双務契約ではないのだ。アメリカは兵の命を賭して日本を守る。しかし、アメリカに何かあった時でも、日本は命を懸けてアメリカの安全保障を守ることはしない。だから、その分お金を出せと言われるし、そもそも、お隣さんに、「自分の家に強盗が入ったら助けに来てくれ。ただ、あなたの家に強盗が入った時は私たちは助けに行けない。何かあれば金銭的な支援はするから」と頼んで、果たしてお隣さんは私の家が災難にあった時に助けてくれるだろうか? 答えは否である。自分の命はかけないのに、人には命をかけろと言う。そんな不平等な約束なんて結ぶはずがないし、例え表面上結んだとしても、いざとなって自分が損することがわかれば、そんな約束などいつでも反故にされるのは間違いない。
人を傷つけない防御力は大切である。しかし、最悪の事態に備えて、せめて相手を怯ませることが可能な、もしくは相手にその実行を躊躇させられるだけの力は持っておきたいものだ。